立浪部屋

<所属年寄・裏方一覧>
師匠 立浪(元小結・旭豊)
行司 木村玉治郎(三役格行司)
呼出 悠斗(幕下呼出)
床山 床辰(一等床山)


<近況>
・新十両豊昇龍・返り十両天空海が十両に定着。幕下上位はいなくなり、幕下下位~三段目上位で上戸・羅王・北大地が競り合う様相に。
・2年初に奥武山、2年春に渉利・筑波山が入門。この中では高校相撲を経験している渉利の出世が先行する形となるだろう。
・5月28日、3元号をまたぎ土俵に上がる現役最年長力士華吹が50歳の誕生日を迎えた。
15年ほど前になるのか、双羽黒が立浪部屋のコーチに就いた時期の漫画で、かつて自分の付け人をしていた立田仲(亡くなった世話人の羽黒海さん)がまだ現役でいることに驚くというものがあった。
それで言えば、華吹の入門は双羽黒がまだ大関時代の昭和61年春。改めてどのような感想を書くべきか、適切な言葉が思い浮かばないほどの次元である。


その他の注目力士
上戸(生年:平成7年 出身:長崎 身長:177センチ 体重:132キロ)
高校時代7人制ラグビーの花形選手として鳴らした異色型。中京大を中退して29年春に入門すると、相撲未経験ながら、決して大きくない体で2年足らずの幕下昇進(31年初場所)を果たす。その後は通算3場所で勝ち越し一度に留まっており、4度目の昇進を果たした2年夏場所新番付以降、なんとか幕下の地位に定着していきたい。

一番の魅力は、もろ手を出しながら頭でもかましていく立合いの低い踏み込み。体重も130キロ台まで増えてさらに圧力が増してきた。まだバタ足気味、脇が甘く下を向く癖もあるので、相手の叩きや差し手を覗かれての肩透かしにバッタリ行ったり、体が起きたところでまともに胸を合わせてしまったりという相撲は多いが、経験が浅く改善の余地がある分、年齢以上の伸びしろが残されている。
方向性としては、いかに小力があると言えども大きな力士と力勝負になってしまっては苦しい(下半身も同部屋の北大地ほどには柔軟でない)ので、やはり突き押しを重点的に伸ばすこと。成長の過程において前に落ちる負けはしょうがないという割り切りも必要だ。


北大地(生年:平成10年 出身:北海道 身長:170センチ 体重:127キロ)
中学卒業後の26年春場所初土俵で、三段目昇進にはちょうど2年を要した。30年以降三段目上位に定着し、幕下へもう一息の状況が続くことおよそ2年。2年初場所でようやく一つの目標を掴むと、その場所で5番勝ち、すでに幕下相当の力量を有していることを証明してのけた。

元々は短躯型の押し相撲を軸にしつつ、左半身での投げ技や膠着状態での蹴返しなど組んでからの技能にも光るものを見せるというタイプだったのだが、幕下昇進前後の数場所で完全に主客逆転。左半身で構えモロ差しを狙ったり、また半身を作り直して巻き込んだ相手の左差し手を右からおっつけたりという輪島スタイルで堅固な守りを築く持久戦スタイルが定着している。他にも引っ掛け系の手癖にも上手さ・嫌らしさを発揮できる曲者型。非常にしぶとく、相手にやりづらさを与えられる力士と言えるだろう。

ただ、いかんせん小さな体。幕下中位で2勝に終わった2年春場所の相撲内容は、上手を許した相手にじっくりと胸を合わせるなり、下手投げを打った方向に慌てず体を寄せるなりされると抗う余地が乏しいことを如実に示していた。
今後の改善点として「頭をつけろ」というのは簡単だが、長年相撲を観ていると、この手のタイプに対する要求としてなかなか難しい部分があることは自ずと判ってしまう(どちらかと言えば、右四つ時の方が相手の横にくっついて頭をつける体勢には持ち込みやすいはず)。それでも、幕下中位以上の壁を
超えていかねばならない現実がある以上、どのような手立てに活路を見出すのか、具体的な取り組みを興味深く見ていきたいと思う。


羅王
(生年:平成5年早 出身:埼玉 身長:171センチ 体重:119キロ)
福岡・希望が丘高での相撲経験を経て、23年初場所初土俵(当時の四股名は羅王丸)。5年近くかけて幕下に上がると、その後は三段目上位との間で一進一退。30年は右肘の手術で休場が続き序二段まで陥落するも、名古屋での復活優勝を起点に再起の道を歩み、ここ1年ほどは幕下~三段目を行き来する状態へと復している。
爆羅騎(式秀)は実弟。立浪部屋の出羽海一門加入により、現在は同一門に属する間柄となった。

下から下から相手に圧力をかけていく基本に忠実な攻め。押し相撲でも取れるが、もっとも得意とするのは、右四つを整えての寄り身。右腕の返し良く、左はおっつけながらの前ミツで、きちっと相手に密着する姿勢は一級品だ。
惜しいのは立合いで手の使い方が外回りになってしまうため、どうしても序盤受ける格好を強いられやすいこと。持ち堪えて反撃に転じることさえ出来れば、逆に起きた相手の中に入っていきやすくもあるが、幕下級の相手ともなると、逆襲の機会を見つけることも容易ではない。幕下通算10場所で3度の勝ち越しに留まっている要因もそのあたりに見え隠れしている。






昨年度分の記事
では当代(7代)になって以降の経緯について述べた。今年度版では1代遡り、6代期の振り返りを行いたい。


関脇・安念山→羽黒山の9代追手風が立浪部屋を継いだのは昭和44年10月のこと。横綱・羽黒山の5代目が54歳で亡くなり、6代目となった。先代はまだ若くしての死であったため、先輩格の年寄も多数在籍していたが、6代は10年以上前に先代の娘と結婚しており、その継承はいたって順当なものであったと言えよう。

6代当初の実績としては、やはり先代遺弟子でともに当時伸び盛りだった旭國を大関、黒姫山を関脇(名三役)に育て上げたこと。彼らの他に若浪、羽黒岩(戸田)がいて、若浪は数年後に引退するも、直弟子の岩下(照の山→岩波)が幕内に上がるなど50年代中頃までは存在感を発揮していた。
しかし、羽黒岩が53年、旭國が54年と抜け始め、ついに黒姫山が57年初場所引退。岩波も同時期を最後に幕内に復帰できず、ここで幕内不在に。次いで57年九州にはいよいよ関取不在の苦境に追い込まれる。

しかし、このときの立浪には今や遅しと出世を待ちわびる垂涎のホープがいた。北尾光司、言わずと知れた後の横綱双羽黒である。その土俵歴について詳述の必要はないだろう。
ともあれ、6代には、この大器を先代が作り得なかった横綱の地位に栄進させた功績と、新人類と呼ばれた土俵内外でのむら気を御しきれず、最後は廃業のやむなきに至らせた罪過とが相半ばする。
「もしも若貴(曙貴)時代の最初期に双羽黒がいたならば…」という反実仮想は、好角家が口角泡を飛ばすに定番のテーマとして若貴全盛の頃から語り続けられること30年弱。そうこうしている内に若貴時代は終わり、新たなお騒がせ横綱が現れ、貴乃花が協会を退職し…そして、昨年双羽黒が55歳で静かにこの世を去っていった。
月日が流れるのはかくも早く、いずれ全ては歴史と変わるのだろう。

双羽黒引退後の6代体制下では、大翔山(幕内・現11代追手風)・大翔鳳(小結・故人)・智ノ(乃)花(小結・現18代玉垣)・大日ノ出(幕内)ら学生相撲出身力士の台頭が顕著に。
立洸(幕内・故人)や双筑波(十両)の非大卒関取経験者を含め、現在誰も立浪部屋に残っていないのは複雑だが、6代目から婿養子の7代目(旭豊)に代替わりするまでの間、よく部屋の屋台骨を支え、関取の輩出を絶やさなかった功績は大きい。
こうして平成11年2月、6代は停年退職となり、引退したばかりの準年寄旭豊が部屋を継承。まだ頭に髷が乗ったままの新師匠による部屋運営が始まった。



参考資料
小池謙一 年寄名跡の代々 立浪代々の巻 「相撲」平成2年11月号




にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村