二所ノ関部屋

<所属年寄・裏方一覧>
師匠 二所ノ関(元大関・若嶋津)
年寄 湊川(元小結・大徹)
年寄 松ヶ根(元幕内・玉力道)
年寄 放駒(元関脇・玉乃島)
行司 式守錦太夫(幕内格行司)
行司 式守慎之助(十両格行司)
呼出 松男(十両呼出)
呼出 (十両呼出)
床山 床平(一等床山)
床山 床島(一等床山)


<近況>
・一山本が新十両昇進(昇進元年名古屋)も、怪我で幕下下位まで転落。2年春、再起の土俵に立った。
・同じく膝の怪我で三段目下位まで落ちた中園も幕下中位に帰ってきた。再度の出世競争を期待。



当ブログが推す有望力士
中園(生年:平成8年 出身:鹿児島 身長:175センチ 体重:142キロ)
相次ぐ苦難と闘い、再浮上を期す叩き上げの有望株。我慢のキャリアにいよいよ大きな花を咲かせたい。
24年春の初土俵から4年あまりで新幕下。翌29年名古屋には初の15枚目以内も経験したが、場所直前に右膝の大怪我を負ってしまう。30年に入って徐々に復調し、秋場所で初の一桁枚数に到達するも、同九州でまたも右膝を悪化させて31年1月~3月と全休。それでも、三段目下位から徐々に再起を遂げ、不屈の闘志で幕下上位が見える位置にまで番付を戻してきた(2年夏場所の番付は西27枚目)。

「中に入った!中園」の実況が心地よく響くもろ差し速攻が最大の武器。
従来は、前に出ながら…というよりも反るようにして胸で当たり、立ち合いから二本差し込んでいきたいタイプだったが、今回の再起途上において立ち合いの踏み込みに鋭さが出つつあるのは明るい材料。
天性とも言える独特のセンス・感覚の良さがあるだけに、飽くまでもろ差しの一芸を磨き上げること。今度こそ止まることなく関取への道を駆け抜けてもらいたい。


若ノ藤(生年:平成元年 出身:愛知 身長:180センチ 体重:149キロ)
30年夏にデビュー14年目・28歳で新幕下入りを決めた遅咲き。
1場所で陥落するも、31年初場所の活躍で春にはおよそ1年ぶりの幕下復帰。元年名古屋には3度目の昇進を果たした。今度は幕下での勝ち越しと定着が目標になる。
この人も中園同様にもろ差し狙いがメイン。やはり馬力型の当たりを受けがちな点は課題も、中に入れば丸い体でしゃくりながら前に出る型がよくハマる。






創設以来の概略については昨年度分の記事を参照。 
今年度分では平成25年に閉鎖された旧二所ノ関部屋について概括的に記しておく。


旧二所ノ関部屋
一度部屋閉鎖によって途絶えた時期があり、厳密に言えば玉錦の6代による再興がなされた昭和10年を創設年とすべきだが、その玉錦の師にあたる5代二所ノ関(海山)を開祖とするのが一般的。
明治40年1月に年寄・二所ノ関二枚鑑札となり、42年1月限り引退。友綱部屋に預けていた内弟子を引き連れて、二所ノ関部屋を創設した。
5代は昭和6年6月、玉錦の横綱昇進を見届けることなく没し、所属力士は元幕内・鬼竜山の7代粂川が率いる粂川部屋へ。上記の通り、ここで部屋の歴史上、空白の期間が3年半ほど生じることになる。

粂川部屋移籍の翌年、念願叶って横綱に昇進した玉錦は無敵の強さを誇るとともに、昭和10年には二所ノ関二枚鑑札(6代)を許され、二所ノ関部屋を再興。7代・8代の二所ノ関(ともに後述)らが育ち、二所ノ関部屋繁栄の基礎を築いた。しかし、6代は双葉山の台頭におされ、覇者返り咲きへ意欲を燃やしていた矢先の昭和13年12月、虫垂炎をこじらせ34歳の若さで急逝。
部屋は弟子の関脇・玉ノ海が急遽引き継ぐこととなり、現役のまま7代目を襲った。

7代目は戦中戦後の難しい時代に舵取りを任され、20年11月以降は現役を引退して年寄専務に。
十勝岩(のち湊川→9代二所ノ関)・神風・力道山らを育てたほか、協会内でも理事を務めるなど要職を務めたが、現役としては心労がたたり目前にあった大関の栄位を逃し、戦後は謂はれのない戦犯容疑で逮捕されるなど苦労が絶えず、思うところあって26年5月限り廃業。部屋は弟弟子の大関・佐賀ノ花(現役)に譲られ、またもや二枚鑑札の師匠が誕生することとなった(※1)。

さて、8代目が名伯楽として知られる大関佐賀ノ花である。27年1月限り引退して年寄専務に。昭和31年入門の大鵬を不滅の大横綱へと叩き上げた功績は今更繰り返すまでもなく、大関・大麒麟も後に続いた。また、引退後に独立して横綱を育てた大ノ海(花籠)・琴錦(佐渡ヶ嶽)・玉乃海(片男波)の輩出も特筆事項と言えよう。
8代は昭和50年3月、57歳で死去。この後、後継をめぐって長い紛争状態に陥ってしまう。

8代後継に関して、当初は引退間もない押尾川(大麒麟)が継ぐか、一代年寄を返上する形で大鵬が戻るかと見られていたが、当面の処置として一門最長老の10代湊川(幕内・十勝岩)が就任。
この「暫定政権」稼働中の50年名古屋で金剛が平幕優勝を遂げると、翌月には8代の次女と結婚(&8代未亡人の養子に)して、本命に急浮上。大鵬は後継レースから下り、押尾川は望みが断たれたと見るや、独立を求めて「押尾川の乱」と呼ばれる例の立て籠もり作戦を決行したのである(※2)

金剛は平幕優勝から僅か1年後に27歳の若さで引退、10代二所ノ関を襲名して正式に名門部屋の跡取りに(9代は湊川に復して部屋付きに戻った後、54年に死去)。
しかし、相次ぐ分離独立を経て本家の勢力は弱まり、長年の部屋運営にも関わらず、直弟子からは小結・大善を出すのみにとどまった。彼の引退後ついに関取ゼロとなって、所属力士も減る一方。
不祥事続きの時代に協会理事としても苦難を強いられた10代はやがて病に倒れ、師匠としてあり続けることが困難となってしまう。
このとき、部屋付きには19代北陣(麒麟児)・13代湊川(大徹)・9代富士ヶ根(大善)がいたものの、協議の結果、25年初場所限りでの部屋閉鎖を決断。一旦松ヶ根部屋へ移籍した10代はおよそ半年後に退職し、治療の甲斐なく翌年65歳でこの世を去った。

名門二所ノ関部屋の落日はかくも儚く、10代の最期は気の毒としか言いようがなかった。同年、魁傑の放駒前理事長も死去。八百長騒動で批判の矢面に立った二人が相次いで亡くなり、早いもので今年7回忌を迎える。


※1 大関の地位と名伯楽の称号。言うまでもなく8代の功績は大きいが、7代の犠牲なくして掴み得なかったものが大きいことも忘れずにおきたいものである。
もっとも、退職したことで7代には「名解説者」という新たな視界が開けた。また36~37年にかけての片男波独立問題に際しては調整役を依頼されるなど、一門内で依然強い影響力を有していたことも見逃せない。

※2 「押尾川の乱」については尾車部屋の項で少しだけ触れるつもりだが、より詳細な経緯について記すのは次年度分以降としたい。



参考資料
小池謙一 年寄名跡の代々 二所ノ関代々の巻  「相撲」平成4年1月号




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