阿武松部屋

<所属年寄・裏方一覧>
師匠 阿武松(元幕内・大道)
年寄 不知火(元小結・若荒雄)
床山 床貴(一等床山)
床山 床雄(四等床山)


<近況>
・先代阿武松が昨年9月限り退職。元大道の新阿武松による部屋運営がスタートした。37歳の青年親方は同年代の部屋付き・不知火と二人三脚で、先代の作り上げた部屋をさらなる隆盛へと導けるか。
・膝の大怪我で幕下から番付外へと陥落し、2年以上も休場を続けた天津。29年秋の再出発から2年半かけて、幕下復帰が目前に迫る地位にまで還ってきた。不屈の30歳にあっぱれ。


主な注目力士

若山(生年:平成4年 出身:千葉 身長:174センチ 体重:167キロ)
拓大紅陵高を出た後、大東大を2ヶ月で辞めて入門。23年名古屋の初土俵から2年で幕下、4年で15枚目以内に入るなど順調に出世していたが、27年11月に右膝の大怪我を負い、6場所連続休場(5場所全休)で番付外まで落ちるどん底の苦悩を味わった。
28年11月に前相撲から出直し、幕下への本格復帰は30年下半期以降。秋場所、幕下で実に3年ぶりとなる勝ち越しを決めると、翌年名古屋まで6場所連続4-3と地道な上昇を続け、およそ5年ぶりとなる最高位(タイ)へ。そこで跳ね返された悔しさをバネに、今度は最高位更新&その先にある栄位を目指していく。

気迫満点の土俵態度は怪我をする前と変わらないが、取り口はずっと成熟したものに。決して勢い任せにならず、相手をよく視ながら低い姿勢を維持、何度も頭で当たり直したり、タイミングよくいなしを交える戦法は、同門で体つきも似ている貴景勝の特長を取り入れたかのよう。
また、腰高気味で差しに来る相手などに対しては、敢えてもろ差し狙いのように踏み込んで、低い重心を生かした左差し右前廻しの形で攻め寄せることも。
課題は立ち合いか。以前の個性的な手つきを改め、両手を十分に下ろし、相手を待つ構えに徹しているのは良化と見ていいが、それでも駆け引き負け(師匠の阿武松は考えすぎと指摘している)して不十分で立たされるケースがたびたび見られ、後手後手に回って立ち直りきれない負けパターンへと繋がっている。加えて、体が大きくなりすぎているように見えるのも気がかりの一つ。本人は百も承知だろうが、古傷の膝に負担をかける結果とならないことを祈りたい。


天王山
(生年:平成5年 出身:大阪 身長:185センチ 体重:132キロ)
同部屋の天津同様に柳学園高相撲部を出てからの入門。当初の出世は早く、26年1月には初土俵から2年で幕下入り。その後は幕下に定着できぬまま5年、さらに6年目の昨年は右肩の手術に踏み切り、序二段まで降下したが、元年九州の復帰後は6-5-5と大勝ちを続け、元々の定位置付近にまで返り咲いてきた。

頭から鋭く当たって突き上げる立ち合い、右を深く差すか浅く前廻しを引いて十分という得意の型は鶴竜と似ていて、一門は違えど究極の理想像として掲げ続けたい存在だろう。
とにかく右を使いたい人が右肩の怪我を経験。だからこそ、再起に向けた歩みの中に怪我の功名となりうるものを見いだせたのかどうか、名古屋場所以降に真価が問われる。


元亀(生年:平成5年 出身:高知 身長:169センチ 体重:115キロ)
埼玉栄ー明大を経て、28年春初土俵。いきなり7場所連続勝ち越して現状の最高位である幕下8枚目まで上昇するも、以降は一進一退の情勢が続く。
網膜剥離による2場所休場明けの30年秋から元年夏までは5場所連続勝ち越しと好調。2年ぶりの15枚目以内となった同名古屋からは四股名を元亀と改め、一層の活躍を誓ったが、5場所で勝ち越し1度のみと失速。2年夏場所新番付では、30年秋以来の三段目陥落となってしまった。

軽量で中に入る相撲を得意とするが、同部屋・高校の先輩でもある慶天海や蘇(引退)ほどには潜り込み・食い下がりを前提とはしておらず、前傾を維持しながら突き押し主体に攻めていくのが理想。正攻法で行きつつも、戦況に応じて中に入るなり、変わり身の速さを活かすなり出来る勘の鋭さに定評がある。
ただ、不調が続くこの頃は、正攻法で取るべき人が再三にわたり立ち合いの変化を用い、逆にまともに行くところを相手の奇襲に遭ってバッタリ落ちてしまうなど、どうも歯車が噛み合わない。比較的長期的に調子が変動しやすいタイプでもあり、良いときの勘が戻ってくるだけでも随分違ってくるはずなのだが…


土佐緑
(生年:平成8年 出身:高知 身長:181センチ 体重:140キロ)
両肩の脱臼などにより2度の長期休場および番付外への降下を経験してきた苦労人は、それでも腐らず怪我を直して、30年秋・九州と、序ノ口・序二段での連続優勝を飾った。
31年春は幕下目前の最高位へと昇進し、連勝スタート。しかし、またしても試練が…4番目の相撲で敗れた際に右膝を負傷、内側側副靱帯部分断裂・前十字靭帯断裂などの重傷で、ふたたび長期休場の憂き目に遭ってしまったのである。
元年九州、再出発を機に本名の光内から土佐緑へと改名。新四股名を背に序ノ口優勝で復帰場所を飾ると、その後も5勝ー6勝と大勝して、夏場所新番付では三段目中位まで番付を回復。自身3度目の長期休場も逞しく乗り越えてきた好漢、その努力が今度こそ報われてほしい。


勇磨
(生年:平成10年 出身:大阪 身長:178センチ 体重:117キロ)
中学卒業後入門の叩き上げ。26年春の入門から徐々に力をつけて、29年九州は最高位の三段目45枚目としていたが、場所前に左膝の大怪我を負い暗転。長い休場を経て、番付外まで落ちた30年秋に再起の土俵を踏んだ。
復帰以降の歩みはきわめて順調。6-6-5-5-4-5と勝って、従来の最高位はおろか一気に幕下昇進を決めると、新幕下場所こそ負け越したものの、翌2年初場所は三段目16枚目でスイスイと波に乗り、自身初の各段優勝。しかし、優勝決定の一番で左手首を痛めてしまい、幕下12枚目まで上がった2年春場所は無念の全休に…このようにして、とにかく出入りの激しい時期を過ごしている。

取り口は豊かな運動神経を生かした撹乱型の突き押し。千代の国と千代白鵬(もう判る人もそんなに多くないか…)をミックスさせたような独特の個性を持っている。
バタバタしているようでいて、相手との距離を適正に保ちながら、自分の間合いに持ち込むのが上手く、決して反射神経頼みというわけではない。立ち合いの一発には威力があり、崩しの局面においても、必ず一つ当たってから去なしや叩きの流れに移るので、引き足の速さ・鋭さがより生きるというわけだ。
現状のまま幕下上位で通用するとまでは言えないが、年齢的にもまだまだ若いのだから一歩一歩で構わない。本場所休止により回復に充てられる時間が増えたことも追い風に、まずは幕下で初の勝ち越しを!


二本柳(生年:平成12年 出身:東京 身長:177センチ 体重:159キロ)
埼玉栄高相撲部では、北の若(八角)や栃神山(春日野)らと同学年だが、右膝の怪我により、デビューは同期のライバルたちからおよそ1年遅れ。それでも、昨年4月以降は入門の決まっていた阿武松部屋で生活を始め、リハビリや基礎トレーニングに精を出してきた。
念願の初土俵は元年九州。翌初場所で下馬評通り序ノ口優勝を果たすと、翌春場所も最初の相撲から6連勝。最後はベテラン南海力得意の右差しを攻略できずに敗れたが、まずはスムーズな船出を進めることができたと言えるだろう。

相撲は、どことなく風貌も似ている千代鳳チックな、重心の低さを生かした食い下がりが持ち味。もっとも、まともに差しにいくor組みつきにかかるだけでは迫力に欠けるし、元々悪い膝にさらなる悪影響を及ぼしかねないことを本人は早晩自覚済み。ゆえに、低い踏み込みからの突き起こし、相手が思わず引きたくような角度での押しを磨くことを目下のテーマとして掲げている。そのような取り口を磨き、徹することができれば、番付は自ずと上がっていくにちがいない。




創設以来の概略については昨年度分の記事を参照。

部屋思い出の名力士①
丹蔵隆浩(出身:石川 生年:昭和59年 初土俵:平成19年3月)

大怪我による挫折にもメゲず、遅咲きの花を咲かせた学生相撲出身力士。
金沢市工~東洋大と名門での鍛錬を経て、寺下の本名で初土俵を踏んだのは土佐豊(現間垣親方)、德真鵬らと同じ平成19年春。翌夏場所には序ノ口優勝を果たしている。同年九州に首の故障で休場もありながら、直後の場所で全勝優勝し、新幕下入り。その後も順調に出世していく。
しかし、20年秋、後々まで尾を引く膝の大怪我を負い、翌九州から5場所連続全休の憂き目に。幕下上位目前にあった番付も、本格復帰の21年九州には序ノ口まで下がってしまった。

その場所を7戦全勝優勝、続く22年初も全勝で優勝同点、春・夏も6勝と重ね、たった4場所で元の番付どころか、最高位を更新することになる東18枚目まで戻したのは、休んでいる間や出場しながら状態を上げて行った時期の努力所以で天晴れの一言に尽きるが、それ以降は幕下中位以上に定着しながらなかなか結果を出せず上位に入れない新たな試練の日々が続くことに。23年秋には初めて上位15枚目以内に進出するも、2場所連続3-4で逆戻り。23年暮れ、そんなもどかしい弟子の姿に、師匠の先代・阿武松親方はあえてカミナリを落とし厳しく叱咤。その熱い檄に応え、明けて24年の初場所以降その取り口は激変した。

踏み込み鋭く、190センチ近い身体で膝を曲げてドンドン前へ攻め込む力強い取り口をベースに、右差し、あるいはモロ差しになっての速攻が冴え渡り、その場所6勝。優勝決定戦に進むと、自己最高位東6枚目の春こそ2勝に終わったが、内容的には前に出る相撲が多く、しっかりとした自信に繋がっていた。そして、その自信が東16枚目の続く夏場所で結実する。見事7戦全勝で自身4度目となる各段優勝、わずか半枚足らず、すぐの関取昇進がならなかったばかりか、翌名古屋は東2枚目と番付運にも恵まれなかったが、もはやそういうことは大きな問題ではない。力強い取り口はブレず、勝負の場所をで5勝2敗。ついに初土俵から5年半かけての新十両を掴みとってみせた。

新十両昇進に合わせて、四股名も本名の寺下から丹蔵と改名。その地元、石川県能登町にある実家の屋号から取ったユニークな四股名は新十両場所の活躍で一層強いインパクトを放つ。
前に出る自分の相撲で勝ち星を並べ、一時は優勝争いに絡みながら、後半戦にはそれ故幕内クラスの地力を誇る上位力士と連戦が組まれ7-7に。しかし、楽日、やはり幕内上位経験者の玉鷲を豪快なすくい投げで放り投げ、見事に新十両場所を勝ち越しで飾ったのだ。
その後は肩の怪我などもあって成績が上がらず、十両在位8場所で幕下に落ちた後、3場所目(26年夏)に引退を決意。まだまだやれる年齢ではあったものの、気力・体力の限界を悟り、潔く角界から足を洗う決心に踏み切ったのも、この人らしい引き際ではなかったか。

インタビューなどでの受け答えは辛抱を重ねて来た力士らしく律儀でハキハキとした威風を具えており、精悍な顔立ち、爽やかな佇まいも手伝って、取的の頃から番付以上の人気を博していた。
現役引退後は整体の道を志し、現在は名古屋に自身が院長を務める「丹蔵整体」を開業している。




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