伊勢ノ海部屋

<所属年寄・裏方一覧>
師匠 伊勢ノ海(元幕内・北勝鬨)
年寄 甲山(元幕内・大碇)
年寄 立川(元関脇・土佐ノ海)
行司 式守海之助(序二段格行司)
床山 床将(二等床山)


<近況>
・頂が元年夏場所、6度目の幕下挑戦でついに勝ち越し。
・期待の漣「あと1つ勝てば新幕下」が3場所続くも生かしきれず。


主な注目力士
(生年:平成6年 出身:東京 身長:190センチ 体重:141キロ)
平成22年入門の叩き上げ。三段目昇進に3年半、幕下昇進に7年とじっくり力をつけながら番付を上げてきたが、いかんせん幕下の壁が分厚く、6度目の挑戦となった元年夏場所で漸く勝ち越すことができた。
体重もだいぶ増えてきてはいるものの、まだ突き放しの圧力が相手に伝わりきっていない場面が多く、先手を取れないと守りの強さ(組んでからの芸)があるわけではないので、かなり苦しくなってしまう。
右で踏み込み、右で相手を突きながら左でおっつけるor左でも突くというのが立合いの戦法で、現役なら玉鷲・引退力士なら部屋の立川(土佐ノ海)と同型。生命線となるのは、やはり立ち合いの角度と腰の安定で、それを作り上げるのは地道な稽古と精緻な取り口の研究以外にないのだろう。
今年で26歳と中堅に差し掛かりつつあるが、勢も錦木も幕下で停滞する期間は決して短くなかった。ひとたび開眼のキッカケを掴みさえすれば、急浮上の望みはある。


鳴滝(生年:平成10年 出身:京都 身長:176センチ 体重:124キロ)
京都の日吉ヶ丘高相撲部出身。入門からおよそ2年の31年初場所、新幕下で見事に勝ち越した。その後の1年は幕下下位を往復、2-5に終わった2年春場所はかつての千代の富士を思わせる肩の厳重なテーピングが痛々しく、三段目からのやり直しを強いられそうだ。

軽量を生かした激しく活気あふれる取り口は、立ち合いであまり腰を割らず、やや立ち腰で当たっていくスタイルが昭和の時代を想起させる分、余計に「今牛若」と呼ばれた先代伊勢ノ海(藤ノ川)の勇姿を彷彿とさせる。
もう一回り大きくなって中アンコくらいに育てば、押す力も一層つけながら変化に富んだ取り口で相手を撹乱していく曲者型へと進展していきそう。中に入る(差す)相撲も取れたほうが先々の利得は大きいタイプゆえに、この点も興味深く観ていきたいと思う。
とある巡業地では、朝日山親方から一門の枠を超えて熱意あふれるレクチャーを受けたとのこと。琴錦の相撲もまた、鳴滝にとって目指すべき指針の一つとなるに違いない。


(生年:平成12年早 出身:岩手 身長:183センチ 体重:117キロ)
平成27年春場所初土俵の叩き上げ。29年初場所、新三段目昇進を機に部屋ゆかりの現四股名に改名している。
典型的なソップ型の体つき。胸で当たる立ち合いが基本ゆえ受けに回りやすい反面、下半身の柔軟性は本物で、うっちゃり腰があることは勿論、合掌捻りや波離間投げの荒技を決めた経験も持つなど土俵際まで何が飛び出すか分からない。左四つ得意であること、外掛けや両廻しで捻りを利かせながら打つ投げ技のレパートリーなども含め、良いように書くなら2代目若乃花(若三杉)チックな取り方と評することも出来るだろう。
やはりというべきか、幕下目前の地位では食い下がる隙を与えてもらえず体力で押し切られる相撲が目立っているが、まだまだ若く、体もこれからもう一回り厚みを増していく時期。立ち合いの強化によって早く自分の体勢を作り、左四つの型も一層深めていければ(上手からの攻めと頭をつけることを覚えたい)、将来的に幕内は難しくないと感じさせるだけの素質を持っている。





昨年度分の記事
では、 現12代伊勢ノ海(元幕内・北勝鬨)の部屋継承とそれ以降の状況等について概観した。今回は1代遡り、11代(元・関脇藤ノ川)時代のことを書こうと思う。

小さな体で所狭しと土俵を駆け回った「今牛若」藤ノ川。その力士寿命は短く、昭和47年九州場所前、わずか26歳の若さで引退。年寄立川(10代)を襲名し、以後は伊勢ノ海部屋付きの年寄として後進の指導にあたっていた。
昭和57年12月、10代伊勢ノ海(来年度分で詳述予定)が死去すると、立川が11代を名乗り、名門の後継を任されることに。翌年には九重部屋が本拠としていた場所に新部屋を開き(九重部屋も同時に新部屋へ移転)、新たな船出へと漕ぎ出したのである。

10代晩年、部屋は斜陽化していたが、継承直後、同志社大相撲部から鳴り物入りで服部(のち藤ノ川→服部)が入門し、上昇ムードに。その服部こそ腰の怪我に泣き短命に終わるも、彼との稽古で鍛えられ、次代のホープとして栄進していったのが久我(のちの北勝鬨、現12代伊勢ノ海)である。昭和62年初場所、服部が関取の地位を明け渡すのと入れ替わりで昭和40年代生まれ初の関取となり、2年後には平成最初の新入幕力士に。
三役・三賞には手が届かず、一見すれば地味なキャリアに映る。しかし、幕内在位49場所・新十両以降関取連続在位82場所は立派。何より苦しい時期に名門の屋台骨を担った功績は高く評価されるべきだろう。

北勝鬨が一人持ち堪える内、同志社大相撲部から土佐ノ海(現・立川)、大碇(現・甲山)が相次いで入門し、平成10年代には3関取時代が到来。中でもスピード出世で番付を駆け上がった土佐ノ海は、大関に迫った名三役としてのみならず、幕内在位80場所・関取連続在位97場所と北勝鬨を上回る息の長さでも部屋を支えた。
土佐が22年九州限りで関取の地位を明け渡す(翌月、引退表明)と、その後数場所は久々に関取不在となり、23年9月限りで11代は停年退職。しかし、この場所で勢が十両昇進を決められたことは、先代に対する何よりの餞であった。

退職以降、11代は在野の立場から協会を見守ってきたが、平成30年3月から協会の評議員に就任。もっか73歳、協会のためにもうひと肌を脱がんと精力的な活動を続けている。



参考資料
年寄名跡の代々 伊勢ノ海代々の巻  「相撲」平成9年5月号
道場開き 九重部屋・伊勢ノ海部屋  「相撲」昭和58年6月号





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