浅香山部屋

<所属年寄・裏方一覧>
師匠 浅香山(元大関・魁皇)
呼出 幸司(幕内呼出)
床山 床誠(一等床山)
若者頭 白岩(元十両・白岩)

<近況>
・元年秋、魁勝が新十両昇進を果たして創設以来初の関取に。
・魁渡が2年初場所で幕下優勝
・魁勇大が元年名古屋で新幕下昇進。


主な注目力士
魁渡(生年:平成8年 出身:新潟 身長:180センチ 体重:164キロ)
中学卒業後の24年夏、浅香山の内弟子第1号として友綱部屋からデビュー。2年後には幕下昇進を決めるなど順調な出世ぶりであったが、27年初場所で左膝の大怪我を負い長期離脱。序ノ口まで番付を落とす挫折を味わった。
それでも、27年九州の復帰以降は1年で幕下に戻り、30年名古屋で初の15枚目以内。31(元)年にはその地位に定着し、秋場所首の不調で全敗の憂き目に遭っても、翌場所全勝優勝で5枚目以内進出と失地回復以上の大ジャンプを遂げている。

もっとも、初場所その地位で1-6の大敗に終わった通り、十両昇進を狙う上ではまだまだ課題も多い。首が悪い影響から立合いに頭で当たることは少なく、もろ手や体当たり気味に出ながら突き放す格好が多い取り口は、地力・体力の向上で突きの腕が伸びたときは威力十分も、腕が伸び切った状態のまま相手に触れてしまうケースがしばしば見られ、膝の故障歴に伴う足運びの脆さと併せて払い落とされやすい要因に。かねがね指摘されている叩きの多さも改善されているとは言い難いのが現状だ。


倉橋
(生年:平成9年 出身:愛知 身長:172センチ 体重:105キロ)
金沢市立工を経て28年夏に入門。三段目で14場所と多少時間はかかったが、小さな体で3年足らずの新幕下は早い出世と評しても良いだろう。
相手の突きを下から下からあてがう際の構えが良く、同型の翠富士(伊勢ヶ濱)が肩透かしを多用して変わり身の速さを活かすのに対して、この人は飽くまで前へ前へ押し上げて行かんとするのが特徴的。圧力負けするケース、差しにくる相手をおっつけきれずに突破されるケースも見られるが、体力・技術とも発展途上の時期においてはやむを得ないことであり、今後の熟成を待ちたい。

ここ半年ほどは一回り痩せた感があり、成績上も低迷。首の不調を抱えているようで、内容面でも立合いでいきなり跳んだり、らしからぬ相撲が見られるのは気がかりだが、思い通りに取れず一番もどかしいのは本人。好漢の復調を願うばかりだ。


魁勇大
(生年:平成11年 出身:神奈川 身長:190センチ 体重:159キロ)
中学卒業後の27年春入門で、デビュー6年目の21歳。
大勝ちも大負けも少ない堅実な星取りで4年目の30年に三段目上位進出すると、秋から31年春にかけて4場所連続で新幕下に星1つ届かぬ悔しさを味わいながらも、5場所目の元年夏に漸くその地位を掴み取った。
190センチ159キロの堂々たる体躯は、上半身の柔らかみも感じさせ魅力たっぷり。プロフィール上は左四つとなっているが、右足から踏み込んだ際には左からの攻めがなく右半身で受けがちなので右四つになることも多く、左足から踏み込み、右前ミツを引いて寄り切った際の相撲を見ていると、こちらのほうが流れは良いようにも感じる。
いずれにせよ、スケールの大きさを持て余さず活用する術をじっくりと見出しながら、大きく育ってほしい素材である。


魁禅(生年:平成5年 出身:鹿児島 身長:176センチ 体重:140キロ)
朝日大相撲部を経て28年初場所デビュー。1年あまりで幕下昇進の早い出世は新興部屋の若い叩き上げ力士たちを大いに刺激し、全体の活性化に繋がった。
自身はその後幕下下位の最高位を更新できず、三段目に居る期間も長くなっているが、充実した部屋の稽古環境を追い風に、もう一度上昇のキッカケを掴みたい。
小柄ながら相撲が大きく、深めの上手で振り回しがちな取り口が課題。体型的には、やはり食いつくか中に入るかの形を伸ばすことで腰の良さを生かしてほしいところだ。


以下はフラッシュ形式で。
友綱部屋の元幕下名城國(めいじょうくに)を父に持つ魁清城(H10 愛知 176 105)は、軽量で受けがちな欠点と、腕力が強く廻しを引けばしぶとさを発揮する長所の両方が父譲り。コツコツ体を大きくしながら、まずは幕下を目指す。
埼玉栄高を中退して入門した魁佑馬(H12 東京 171 158)は、28年夏入門から3年足らずで新三段目入り。短躯あんこの体型で左四つ右を引っ張り込む取り口には改善の余地があるものの、常に前へ出ようという姿勢があるのは評価したいポイントである。
中学卒業後の30年春に入門した小島(H14 鹿児島 180 136)は非常に順調な出世ぶり。デビューから1年で三段目に上がると、2年目も堅実に伸びて三段目上位まで進出している。柔道経験者であることに加え、筋肉質な体つきや身長・体重の数値も含めて魁勝に近いタイプ。柔道経験の名残は少なく、正攻法に徹しているのが早い番付向上の一因と言えそうだ。







創設以来の概略については昨年度分の記事を参照。
さて、現在は伊勢ヶ濱一門に属する浅香山だが、遡れば八嶌山の4代~3代目西ノ海の5代~源氏山の6代までは井筒系(高砂一門~のち双葉山道場)の名跡であった。4代・5代ともに独立して浅香山部屋を開いた(連続性はない)が、いずれも関取は出せず。昭和8年、5代死去によって部屋が閉鎖され、井筒部屋に再吸収されたときの移籍組が、のちに6代浅香山を襲名する源氏山である。

この6代浅香山が昭和17年に廃業すると、翌年7代を襲名したのが長く楯山(8代)を名乗っていた元幕下友響(国ノ音)で、現役時は友綱部屋の所属。友綱部屋付きの年寄として重用された後、熊ヶ谷部屋から移籍してきた清瀬川(のち5代伊勢ヶ浜)とその内弟子を受け入れて楯山部屋を興し、彼の引退後に部屋を譲り渡した(自身は楯山のまま部屋付きとして在籍)。その後養子の関脇幡瀬川に楯山を譲る際、自らは7代浅香山を襲ったという経緯である。
この7代を受け継いだ伊勢ヶ濱部屋(※1)の名人力士若瀬川泰二が8代で、伊勢ヶ濱部屋から独立した木瀬部屋の部屋付きだった青葉山が9代。9代が40代の若さで病死した(平成9年)のち、同一門(当時は立浪・伊勢ヶ濱連合)の魁皇が名跡を取得する運びとなった。
もっとも、彼が実際に15代浅香山を襲名するのは取得から10年以上も経過してからのことであり、その間10~14代まで5代にわたり一門外を含む借株の年寄が続いている。このことからも、名大関魁皇の長命ぶりに救われた親方衆のいかに多かったかが分かるはずだ。


※1 師匠の5代伊勢ヶ浜が昭和28年、弟子の10代荒磯(横綱・照国)に部屋を譲ったため、34年の引退時は荒磯部屋所属。のち荒磯が5代伊勢ヶ浜の停年に合わせて6代伊勢ヶ浜を襲名して以降は再び伊勢ヶ浜部屋の所属へと変わった。



参考資料 
小島貞二 はなしの土俵  元関脇伊勢ヶ浜勘太夫 「相撲」昭和31年7月号
小池謙一 年寄名跡の代々 浅香山代々の巻 「相撲」平成19年1~2月号
小池謙一 年寄名跡の代々 楯山代々の巻  「相撲」平成7年2月号 
小池謙一 年寄名跡の代々 友綱代々の巻  「相撲」平成4年8月号




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