肩にかかった砂を払おうともせず、傲然としてひきあげてゆく(中略)反感を持つ見物の眼には憎々しく見えたのであろう。
傲慢不屈な態度は、しばしば観衆から憎まれる場合が多い(中略)その不遜さに徹して、堂々と土俵にのぼった力士だった。
傲慢不屈さの故に毀誉褒貶半ばする運命を甘受しなければならなかった。
これらは、いずれも小説家尾崎士郎が「國技館」という著書の中で、とある力士について触れた文章である。
作者のことをよく知らないファンならば、一目見て「北の湖のことだろう」と考えるのではないか。しかし、作者である尾崎は北の湖が角界に入門する(昭和42年)より早く、昭和39年にこの世を去っている。
では、誰か?答えはズバリ戦前・戦中にかけての名横綱玉錦、その人である。一回り北の湖の方が大きいとはいえ、丸っこい体つきから、少しく残された幼さが「怪童」の感をより強調する顔つきに至るまで大変よく似ており、さらに言えば、まだ全盛期が続くかに思われた時期、猛然と追い上げる新たな時代の寵児が現れ、玉錦は急逝、北の湖は相次ぐ怪我により、晩年と呼べる時期を謳歌することが出来なかった境遇にもどこか共通するものを感じさせる。
仮に尾崎が60代にして亡くならず、もう15年あまり生きて北の湖の堂々たる横綱ぶりを観ることがあれば、当時世評に溢れていたような、その「傲慢なる」憎らしさをいかなる表現をもって記しただろう。往年の玉錦と重ね合わせたかもしれないし、勿論まったく違う印象をもって評したかもしれない。
稀勢の里という力士も、元より先代師匠の教えに従って決して崩すことのない表情が、仏頂面だとか傲岸不遜だとかで、まさに「毀誉褒貶半ば」すること数多く、スピード出世の経歴なども相まって、入幕当初から「北の湖の再来」と噂されることもしきりであった。
しかし、その後大関魁皇や千代大海の衰えが否定しがたいところまで達するようになると、次第に持ち前の(?)「ヒール」的な素養は影を潜め、多くの観衆は稀勢の里という力士に、外国出身力士に対抗する「日本代表」一番手としての役目を託すようになる。その大きなキッカケとなったのが、やはり22年九州、白鵬の連勝を63にてストップさせた一番であったように思う。
翌23年九州後には大関昇進。さらに翌24年の夏場所では白鵬が前半から崩れたことにより、絶対的に有利な状況で優勝争いの先頭に立ち、終盤戦を迎えた。当時26歳の大関昇進3場所目。もし、このタイミングで初優勝の栄誉を手にしていたならば、同年中には日馬富士や鶴竜に先んじて綱を張り、観衆が63連勝ストップを経て抱いた「期待」にのみ応え抜く名横綱として、白鵬との二強時代を築き得たのかもしれない。
しかし、結果は周知の通り、まさかの崩れで4敗を喫して優勝を逃す。そして、この後も大関として絶大な安定感を誇りながらも、再三に渡り、もう一歩で賜杯に届かない状況が続いていった。
そうした中で、いつしか観衆の稀勢の里を観る眼は、駆け出しの頃の「憎々しさ」を愉しむものでも、外国出身力士への対抗軸としての「強さ」だけを求めるのでもない、一言で表すことができないほどの複雑さを帯び始める。
ときに見せる圧倒的な強さへの感嘆、そうかと思うと格下相手にコロッと星を落としてしまう脆さへの戸惑い…
唯一言えることがあるとすれば、相撲世論は決して稀勢の里を見放さなかった。言葉で容易に表現できないようなところにあるものを好むとされる日本人的な特性が、この強くて脆い大関の魅力を愛してやまず、愛情、同情、愛憎…さまざま入り混じった思いの丈を大いに表明し合った。
こうした状態は24年の夏に初優勝を逃して以降、基本的には止むことなく続いてきたが、去る初場所での初優勝と横綱昇進を経て、ようやくひとつの区切りを迎えることとなりそうだ。
※絶対的に強い者ではなく、強かったり脆かったりする者に最大の注目と関心が集まり続ける現象は、朝青龍はともかく、日本人以上に日本の心を身につけたと言われる白鵬にさえも充分に咀嚼することは難しかったらしい。
それゆえの不幸なすれ違いが二度三度生じ、一部の心ない観衆の行動がその孤独をいっそう深めた経緯は決して忘れ去ってはならぬ教訓であろう。
今でも時々、稀勢の里が圧倒的な強さを誇り、優勝争いにおいて一人旅を続けるような場所が続いていれば、やはり往年の北の湖、そして尾崎氏が言う玉錦のような「ヒール」役を演じることになったのだろうかと考えることがある。
あるいは、向こう何年かそういう時期が来ないとも言い切れないが、すでに長い大関時代において、悪役とは成り得ない背景が出来上がってしまった以上、「強すぎるゆえに憎まれる」という存在にはならないだろう。
先の玉錦が全盛を築いたのは昭和一桁から11年に最後の優勝を果たしたあたりまで。次いで北の湖が黄金期を形成したのが玉錦の全盛期から40年ほどを経過した昭和50年代前半~55~6年にかけての頃であろう。
そして、北の湖の全盛期からまた40年ほどが過ぎ、稀勢の里という横綱が生まれる。時代に意味づけられた役目こそ異なるが、新横綱の堂々たる佇まいはきっと二人の偉大な先達にも劣ることなく、後世へ語り継がれるに違いない。
傲慢不屈な態度は、しばしば観衆から憎まれる場合が多い(中略)その不遜さに徹して、堂々と土俵にのぼった力士だった。
傲慢不屈さの故に毀誉褒貶半ばする運命を甘受しなければならなかった。
これらは、いずれも小説家尾崎士郎が「國技館」という著書の中で、とある力士について触れた文章である。
作者のことをよく知らないファンならば、一目見て「北の湖のことだろう」と考えるのではないか。しかし、作者である尾崎は北の湖が角界に入門する(昭和42年)より早く、昭和39年にこの世を去っている。
では、誰か?答えはズバリ戦前・戦中にかけての名横綱玉錦、その人である。一回り北の湖の方が大きいとはいえ、丸っこい体つきから、少しく残された幼さが「怪童」の感をより強調する顔つきに至るまで大変よく似ており、さらに言えば、まだ全盛期が続くかに思われた時期、猛然と追い上げる新たな時代の寵児が現れ、玉錦は急逝、北の湖は相次ぐ怪我により、晩年と呼べる時期を謳歌することが出来なかった境遇にもどこか共通するものを感じさせる。
仮に尾崎が60代にして亡くならず、もう15年あまり生きて北の湖の堂々たる横綱ぶりを観ることがあれば、当時世評に溢れていたような、その「傲慢なる」憎らしさをいかなる表現をもって記しただろう。往年の玉錦と重ね合わせたかもしれないし、勿論まったく違う印象をもって評したかもしれない。
稀勢の里という力士も、元より先代師匠の教えに従って決して崩すことのない表情が、仏頂面だとか傲岸不遜だとかで、まさに「毀誉褒貶半ば」すること数多く、スピード出世の経歴なども相まって、入幕当初から「北の湖の再来」と噂されることもしきりであった。
しかし、その後大関魁皇や千代大海の衰えが否定しがたいところまで達するようになると、次第に持ち前の(?)「ヒール」的な素養は影を潜め、多くの観衆は稀勢の里という力士に、外国出身力士に対抗する「日本代表」一番手としての役目を託すようになる。その大きなキッカケとなったのが、やはり22年九州、白鵬の連勝を63にてストップさせた一番であったように思う。
翌23年九州後には大関昇進。さらに翌24年の夏場所では白鵬が前半から崩れたことにより、絶対的に有利な状況で優勝争いの先頭に立ち、終盤戦を迎えた。当時26歳の大関昇進3場所目。もし、このタイミングで初優勝の栄誉を手にしていたならば、同年中には日馬富士や鶴竜に先んじて綱を張り、観衆が63連勝ストップを経て抱いた「期待」にのみ応え抜く名横綱として、白鵬との二強時代を築き得たのかもしれない。
しかし、結果は周知の通り、まさかの崩れで4敗を喫して優勝を逃す。そして、この後も大関として絶大な安定感を誇りながらも、再三に渡り、もう一歩で賜杯に届かない状況が続いていった。
そうした中で、いつしか観衆の稀勢の里を観る眼は、駆け出しの頃の「憎々しさ」を愉しむものでも、外国出身力士への対抗軸としての「強さ」だけを求めるのでもない、一言で表すことができないほどの複雑さを帯び始める。
ときに見せる圧倒的な強さへの感嘆、そうかと思うと格下相手にコロッと星を落としてしまう脆さへの戸惑い…
唯一言えることがあるとすれば、相撲世論は決して稀勢の里を見放さなかった。言葉で容易に表現できないようなところにあるものを好むとされる日本人的な特性が、この強くて脆い大関の魅力を愛してやまず、愛情、同情、愛憎…さまざま入り混じった思いの丈を大いに表明し合った。
こうした状態は24年の夏に初優勝を逃して以降、基本的には止むことなく続いてきたが、去る初場所での初優勝と横綱昇進を経て、ようやくひとつの区切りを迎えることとなりそうだ。
※絶対的に強い者ではなく、強かったり脆かったりする者に最大の注目と関心が集まり続ける現象は、朝青龍はともかく、日本人以上に日本の心を身につけたと言われる白鵬にさえも充分に咀嚼することは難しかったらしい。
それゆえの不幸なすれ違いが二度三度生じ、一部の心ない観衆の行動がその孤独をいっそう深めた経緯は決して忘れ去ってはならぬ教訓であろう。
今でも時々、稀勢の里が圧倒的な強さを誇り、優勝争いにおいて一人旅を続けるような場所が続いていれば、やはり往年の北の湖、そして尾崎氏が言う玉錦のような「ヒール」役を演じることになったのだろうかと考えることがある。
あるいは、向こう何年かそういう時期が来ないとも言い切れないが、すでに長い大関時代において、悪役とは成り得ない背景が出来上がってしまった以上、「強すぎるゆえに憎まれる」という存在にはならないだろう。
先の玉錦が全盛を築いたのは昭和一桁から11年に最後の優勝を果たしたあたりまで。次いで北の湖が黄金期を形成したのが玉錦の全盛期から40年ほどを経過した昭和50年代前半~55~6年にかけての頃であろう。
そして、北の湖の全盛期からまた40年ほどが過ぎ、稀勢の里という横綱が生まれる。時代に意味づけられた役目こそ異なるが、新横綱の堂々たる佇まいはきっと二人の偉大な先達にも劣ることなく、後世へ語り継がれるに違いない。